存在の暴露としての藤田作品
〈写実〉という芸術ジャンルは、ある意味で難解である。というのも、「芸術=難解なもの」という通念をわれわれは持っている。にもかかわらず、写実絵画は、その「芸術=難解なもの」に反して、われわれがそれを読めてしまうからだ。「本来、難解であるはずの芸術なのに、容易に理解できてしまってよいのだろうか?作品を「本物みたい」と単純に了解することが正しい鑑賞なのだろうか?」とわれわれを思い悩ませるという意味において〈写実〉は難解なのである。
さて、藤田作品は、この意味においてとりわけ難解であることが注目すべきポイントである。たとえば、人物は、物憂い表情を浮かべているのでもなければ、われわれになんらかの叙情性を喚起させる空間に置かれているわけでもない。人物と花とか、カーテンとそれから差し込む光とかでも描いてもらえれば、こちらはいわゆる画面のリズムとか、叙情的な想像の戯れに身を委ねることによって作品を暫定的に了解できるだろう。しかしながらわれわれは、藤田作品にそのような鑑賞者へのリップサービスを期待することはできない。画面に描かれているのはひたすら物だけであり、そのことがわれわれを困惑させるという意味において、藤田作品はとりわけ難解であると言えるのである。
それでは、われわれは藤田作品にどのように接すればよいのだろうか?言い換えれば、どのような美的態度が藤田作品をたとえ暫定的にでも了解する糸口を与えてくれるのだろうか。そこで、その了解の糸口を与えてくれるツールとして、〈近代主観主義的美学/存在論的美学〉という対立軸を利用しよう。前者は、諸要素の遊びと調和にこそ美ないし芸術の本質を認める美学であり、後者は、われわれの世界内にある存在の開示にこそ芸術の本質を認める美学である。存在論的美学の代表はハイデガーとメルロ=ポンティであることはそれなりに周知のことであるだろう。さて、ここではそのような偉大な哲学者の思想は脇に置き、存在論的美学についての私見を英語のrevealの語源であるラテン語のrevelareにそくして手短に述べたい。
われわれが接するもろもろの物は、様々なヴェールが実は幾重にも折り重なっていることはご存知だろうか。そのヴェールは、意味作用を持つ記号でもあり、無意識にわれわれが抱いている様々な観念でもあって絵画にも往々にして反映されやすい。たとえば、人物は、絵の中で椅子に腰をかけ足を組むならばただちにいわゆる人物画としての意味作用を持つ。あるいは、背景を黒くしモチーフに強い光を照らし陰影のコントラストが表示されているならばただちにバロック的なものとしての意味作用を持つ。無意識にわれわれが抱いている観念に関していえば、言葉に還元しえない様々な観念的イメージや、現在流通しているもろもろの言説がわれわれのうちに幾重もの層をなして内在化されている。
以上のような種々様々なヴェールを一枚一枚剥ぎ、一糸まとわぬその存在の暴露にこそ、存在論的美学の骨子がある。このような観点から、たとえば藤田の人物画は、種々様々なヴェールを剥いでいくことによって、人間が、肉、骨、髪の複合体であることを暴露するrevelare(valareヴェールre剥ぐ)のである。
本個展では、藤田作品のそれぞれにおいて、一枚一枚、執拗なまでにヴェールを剥いでいく藤田の作業工程と、それによって暴露された「物」を感じとっていただければ幸いである。
《執筆者略歴》
大澤慶久
1981年生まれ
東京芸術大学大学院博士後期課程満期退学(美学)
所属学会:美学会
研究:口頭発表「美術批評のレトリック:ロザリンド・クラウス「ノー・モア・プレイ」の分析」美學 62(2), 139, 2011.
これまでの研究:アメリカ美術批評、美術批評の修辞学的構造分析、カント美学。
主な関心:芸術作品と鑑賞者の媒介としての批評ないし言語活動。
Eメール:yoshihisa.osawa.bg@gmail.com